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「国立大学改革論―― 自由主義は何を批判しうるか」

 

 

『アソシエ21 ニューズレター』No.9, 2000.1.所収.

 

 国家組織の多くを独立行政法人へ移行させるという行革案は、すでに橋本龍太郎内閣の段階から検討されてきたが、昨年八月になって急に、小渕恵三内閣の公約である「国家公務員二五%削減」の数合わせのために、国立大学のすべてを法人化するという「妙案」が浮上した。昨年一月の「中央省庁等改革推進大綱」では、この問題については二〇〇三年までに結論を得ることになっていた。ところがここにきて、本年中に結論を出さなければならないとの方針が示され、現在、国家の教育組織全体にかかわる変更が、思慮と理念を欠くまま実行されようとしている。このような拙速さに対して、われわれはまず、時事的な政治状況に左右されるような性急な判断を拒否することが賢明であろう。巷では国立大学の独立行政法人化は「不可避である」という言説が横行しているが、しかしわれわれは、単純に賛成・反対の立場をとれる段階にはいない。

   事務的業務ならともかく、そもそも国立大学の教育・研究を独立させることの財政的効果は疑わしい。現在の国立大学の予算は約一兆五千億円であるが、これに対して小渕内閣は年間三〇兆円を超える積極的な国債発行を実施している。政治経済の現状からみれば、急ぐべきは国債発行の抑制策であって、国立大学の支出削減ではない。また、高等教育に対する公的財政支出は、対GNP比でみて、アメリカ一・一%、ドイツ一・五%、日本〇・七%であり、日本はこれまで高等教育への投資を惜しんできたのであるが、最近ではむしろ増額の方向で検討されており、高等教育は財政削減の対象ではないことが分かる。

   このように、独立行政法人化を「経費削減」のために進めることは、実際には国家の教育・研究政策ではない。国家の狙いは、大学の知的資本を「国家繁栄」のために活用すべく、競争原理と裁量的管理の両方を実現するようなシステムの確立にあるのだろう。そしてその場合、国立大学の独立行政法人化は、一方では、業績競争の促進、可変的給料体系の導入、雇用の不安定化、パートタイム労働の積極的活用といった、いわゆる「新自由主義」的政策を取り入れようしている。しかし他方では、五年という中期目標の自主的提出とそれに基づく予算配分によって、国家が各大学の発展と衰弱を裁量的に評価しつつ、国家のために教員を動員するという「集産主義」的政策を取り入れている。一般に自由主義と集産主義とは対立する思想であるが、しかし今回の改革では、この二つが相補的に結合しており、いわば「自由集産主義」とでもいうべき改革が進められている。

  この自由集産主義に対して、われわれはいかなる態度を取りうるだろうか。これまでの反論は、およそ以下の四つにまとめられると思う。

   第一に、改革の「新自由主義」的側面を批判し、雇用の確保や給与の均等性を求める立場がある。これは主として大学の教職員組合の運動にみられる。

   第二に、改革の「集産主義」的な側面を批判し、大学運営や研究を裁量的に評価することへの危惧を表明する立場がある。これは自由主義および一部の左翼に見られる反権力主義の立場に共通する見解である。

   第三に、改革における自由主義と集産主義の両側面を批判し、このどちらによっても育むことのできない「教養」を重視する立場がある。教養派は、実際には数年前の全国的な教養部廃止策によって痛い敗北を経験しているのだが、しかし独立行政法人化に対する力強い反対論を提出している。そもそも教養の教育は、金銭的によい生活をしたいというエゴから解放されることを美徳として称揚してきた。彼らによれば、教員の生活は政治経済的関心に晒されるべきではなく、また、教養や教育の問題はこれを政治経済化しても解決されないと考える。

   第四に、そもそも知的発展のためには膨大な時間と無駄が必要であり、大学において評価すべき目標は中期ではなく長期でなければならないとする見解がある。なるほど、職業教育や応用的な技術開発の部門では独立行政法人化は望ましいとしても、基礎研究や哲学的部門については中期的評価が難しい。したがっていくつかの部門は国立大学に留まるか、あるいは「個別法」に基づく独立行政法人化が望ましいだろう。(一部の大学院大学を国立大学として残すというのは民主党の案でもある。)

   以上、四つの反論形態を示したが、自由主義の立場からみた場合、国立大学改革の最大の問題は、単一の評価機関によって裁量的に評価するという集産主義的側面にある。そのような評価によって効率的になる部門は一部にすぎない。それゆえ独立行政法人化は、部門別に分けて行う必要があるだろう。自由主義は必ずしも、中期的効率性を重んじる功利主義でもなければ、市場原理主義でもない。私は成長をベースにする自由主義の立場から、知的成長のためには膨大な無駄が必要であることを認めつつ、国家管理の限界に注意を喚起したい。と同時に、積極的には、評価の長期性と複数性を実現するような政策を求めたいと思う。